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アメリカの産業政策を変えたヤングレポート

三谷拓也 | 2024/05/03

プロパテントとアンチパテント


特許行政の世界にはプロパテントという言葉があります。
プロパテントとは、特許を取得しやすい、特許が無効化されにくい、特許侵害訴訟で特許権者が勝ちやすい、損害賠償額が高額化しやすい、などの法環境を整えることにより、特許の威力を強める政策のことです。

プロパテントの反対語がアンチパテントです。
アンチパテントとは特許の威力を弱める政策のことです。

各国政府は、国際競争における自国のポジションに基づいて、プロパテント度(あるいはアンチパテント度)を調整することで国益最大化を目指します。

アンチパテント時代


アメリカは、1929年の大恐慌を契機としてアンチパテントにシフトしました。
当時のアメリカ政府は、大企業の独占支配により中小企業の活動が制限されていることが大恐慌の原因のひとつであると判断し、特許の威力を弱めた方がよいと考えました。
このころの特許権者の敗訴率は90%近かったらしく、特許がほとんど効かない強烈なアンチパテント時代でした。


特許保護が弱ければ、積極的にライセンスして少しでもお金を稼ぐ方が合理的行動となります。
特許の威力が下がれば技術を調達しやすくなります。
ソニーは、ベル研究所からトランジスタ特許のライセンスを受けることにより大きく成長しました。
また、FTC(連邦取引委員会)はゼロックスにコピー機の特許を他社に許可するように指示(強要?)したため、これにより日本製コピー機がアメリカ市場を席巻し、ゼロックスは競争力を失ったといいます。
アメリカのアンチパテントは、日本企業にとって有利に作用しました。

アンチパテントは、保護よりも競争を尊重します。
 

プロパテントへの転換


1980年代になると、アメリカはプロパテントに転換します。
その契機となったのが、ヤングレポートです(正式名は「Global Competition—The New Reality(グローバル競争:新たなる現実)」)。

ヤングレポートは、1985年にレーガン政権の大統領産業競争力委員会により出された報告(政策提言)です。
この報告がヤングレポートと通称されるのは、ヒューレット・パッカード社(以下、「HP社」という)の社長であるジョン・A・ヤングが委員長だったからです。
ちなみに、ヤングはHP社をコンピュータ企業に生まれ変わらせて急成長させた中興の祖ですが、後に創業者であるデイビッド・パッカードによって社長を解任されています。

ヤングレポートは、ひと言で言えば、「イノベーションを国家支援し、その成果がアメリカの利益にきちんとつながるようなシステムをつくらなければならない」という提言です。
ヤングレポートを契機として、アメリカはアンチパテントからプロパテント(特許強化)に政策転換します。

ヤングレポートは製造業を重視しているところも特徴です。
ヤングレポートは、サービス経済の時代であっても、金融や保険のようなサービスの多くは製造部門向けに実施されることが多いのだから、製造部門あってこそのサービス部門であると考えています。
ヤングレポートの後継であるパルミサーノレポート(2004年)では、国際競争力と経済成長の源泉はイノベーションであるとして、イノベーション重視をいっそう強く打ち出しています。

ヤングレポート抄訳


ヤングレポートはそんなに長い文章ではありません。以下は、ヤングレポートの抄訳です。

・・・

アメリカの国際競争力は、以下の4つの目標によって決まる。

(1)テクノロジーを創造し、応用し、保護すること。
(2)アメリカ産業への投資を増やすこと。
(3)熟練した、柔軟で、意欲的な労働力を育成すること。
(4)世界貿易システムを強化すること。

現在、アメリカが直面している国際競争上の挑戦は、スプートニクショックのようにシリアスでありながら、スプートニクショックよりも繊細で静かなものである。このため、アメリカは国際競争という課題に対して充分な対応ができていない。

(1)過去20年間で、アメリカの国際競争力は低下しているという証拠がある。
(2)生活水準向上と国家安全保障という国家目標を達成するためには、国際競争力がなければならない。
(3)国際競争力の向上を優先課題としなければならない。

国際競争力とは「ある国が、自由かつ公正な市場において、国際市場に受け入れられる製品とサービスを生産し、いかに国民所得を維持・拡大できるか」である。
アメリカは、国際競争のために賃金を下げる方針を採るべきではない。

相互に依存し、しかも、競争の激しい世界市場において賃金を稼ぐことが課題である。
アメリカ人が受け取る賃金、アメリカ人の高い生活水準は、世界市場で獲得されねばならない。

アメリカの競争力低下を示す指標は以下の通りである。
(1)アメリカの生産性の伸びは、主要貿易相手国(特に日本)に負けている。
(2)実質所得は1973年以来低迷している。
(3)製造業に対する投資効率が悪い。製造業は多くのサービスを支える基盤である。
(4)アメリカの貿易赤字が大きい。経常赤字の原因の多くはドル高だが、それだけでは説明がつかない。
(5)アメリカのハイテク企業の多くが世界シェアを失っている。特に、エレクトロニクス部門での日本に対する赤字が大きい。

当委員会は、国際競争力に対する影響要因について、テクノロジー、資本、人材、国際貿易の4部門について検討した。

(A)テクノロジー

国際競争においてテクノロジーはアメリカの最大の強みではあるが、他国との差が縮まってきている。
国の研究開発予算の多くが宇宙開発と国防に費やされており、競争優位につながるような基本的な研究分野への投資が少ない。
研究開発への投資効率もよくない。研究所や研究開発プログラムの数が多く非効率となっている。
研究開発を刺激するための税金控除(減税)を求める。
テクノロジーの進歩は経済全体に利益をもたらす。たとえば、マイクロプロセッサーは、自動車や電子レンジ、ステレオなどあらゆる用途に使われており、アメリカの多くの産業に競争上の優位性をもたらした。

アメリカの弱点は、テクノロジーの応用に充分な注意を払わないことである。
いくら最先端製品を設計しても、海外の誰かがそれを素早くコピーして安価に製造できてしまっては意味がない。
ロボティクスや統計品質管理を開発したのはアメリカ人だが、それを製造に上手に応用したのは日本人である。

製造部門は格好良くなかった。
大学でも、生産技術に対する関心が薄い。

 テクノロジーの創造と応用だけでなく、偽造や不正使用からの保護も必要である。
特許法を見直す必要がある。同様に、貿易相手国にもテクノロジーを保護するように主張する必要がある。

(B)資本

技術革新と応用、知的財産の保護がなされたとしても、資本資源の分野で不利な立場にあってはこれらも意味がなくなってしまう。
資本コストの高さがアメリカ企業にとって競争上の不利となっている。
日本はアメリカよりも資本コストが低いから半導体産業に参入できた。技術優位性ではない。

(1)アメリカが資本コストを削減するには、まず、赤字を削減しなければならない。
連邦政府の借金が大きくなると金利が高くなり、金利が高くなるとドル高になり、ドル高になると輸出価格が上昇するために海外売上が減少する。
(2)国際競争の影響を最も受ける製造業の実効税率が高いという問題がある。税制とは産業政策である。投資を奨励する環境をつくる必要がある。
(3)金融政策を安定させねばならない。金融政策が不安定になると資金の貸し手はリスクプレミアムを要求するようになるため、資本コストが高くなってしまう。
こういうビジネス環境では、経営者は長期的計画を立てにくくなり、短期的な見通ししかできなくなる。

(C)人材

(1)有望分野における科学者と技術者を養成するため、大学の研究能力を強化するべきである。
(2)再教育と継続教育により、労働力を柔軟に適応させる必要がある。
(3)経営陣と労働者は、競争的な課題において共通の利害を認識する必要がある。このためのインセンティブとして、利益分配、ストックオプションなどを検討する。

(D)国際貿易

通商政策の意思決定が複雑化し、説明責任が欠如している。内閣レベルでの貿易省の創設を求める。
同盟国以上に厳しいアメリカの輸出規制を見直すべきである。輸出規制によりアメリカは売上を失っている。輸出許可のプロセスを合理化するとともに、輸出金融等による輸出奨励策を立案する必要がある。

国際貿易は増加しているが、合意規則によってカバーされている貿易の割合は低下している。サービスや投資に関しても合意されたルールがない。
関税は下がったが、むしろ非関税障壁の活用は増加している。
国際貿易システムを強化し、貿易相手国、特に新興工業国にルールを守らせねばならない。

[まとめ]

世界市場で競争できるかどうかは以下にかかっている。
(1)テクノロジーを創造し、応用し、保護すること。
(2)アメリカ産業への投資を増やすこと。
(3)熟練した、柔軟で、意欲的な労働力を育成すること。
(4)世界貿易システムを強化すること。

当委員会が「本当に新しいもの(anything really new)」を打ち出さなかったことに失望した人もいる。
「新しさ」に惹かれる人たちには「基本を実行することに勝るものはない」と言いたい。

当委員会は政府の新しい役割を明らかにしたわけではない。
明らかにしようとしたのは、政府が自らの役割を効果的に果たしていないという事実である。
政府には、アメリカ産業が効率的に競争できる環境を作る責任があるが、それは達成されていない。

私たちは国際競争という新たな現実に直面している。そのためには、新しいビジョンと新しい決意が必要である。
 

アメリカの復活


ヤングレポートは、アメリカ産業を支援するために国家の介入を求めています。
当時のレーガン政権はヤングレポートを全面採用したわけではありませんが、このレポートのあとに知財保護が不十分な国を監視する「スペシャル301条」が成立し、知的財産に関する条約であるTRIPS協定も成立しています。
アメリカの特許訴訟件数は大幅増加し、損害賠償額も高額化しました。

ヤングレポート以後、アメリカ産業は復権します。
もちろん、ヤングレポートだけでアメリカが変わったわけではなく、産業のIT化によるゲームチェンジなどいろいろな要因はあるかと思います。
 

プロパテントのその後


プロパテントを強めると、パテントトロールなどの副作用が出てきます。
特許を与えすぎるとかえってイノベーションを阻害するというFTC(連邦取引委員会)からの提言もあり、後にアメリカはアンチパテント方向に少し戻します。
以前は、日本よりもアメリカでの特許取得の方が簡単というイメージでしたが、近年では昔ほど簡単ではありません。特に、ソフトウェア特許については審査が厳しくなっています。

一方、特許の威力が弱くなると、研究開発資金がアメリカから他国に逃げてしまうという懸念も出ています。
アンチパテントになると、イノベーションにチャレンジしづらくなります。
アンチ方向に戻しすぎたのではないかという反省も出てきています。

アメリカが再びプロパテント方向に調整していくのかはもう少し見てみないとわかりません。

プロパテントは保護を重視します。
イノベーターの利益が強く保護されるため、イノベーションは活性化すると考えられます。
一方、特許保護が強すぎると、関連技術の開発に支障が出てくるため、技術の普及・活用が阻害されるという問題もあります。

アンチパテントは競争を重視します。
特許保護が弱くなるとイノベーションに対するチャレンジ意欲が減退します。
一方、他社から技術を調達しやすくなるので、技術の普及・活用に有利という側面があります。

国際環境に応じて、特許の強度、すなわち、プロパテントとアンチパテントのバランスは常に調整されています。

参考:「JPEGを刺した100億円特許」「マイルール製造法としての特許法