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特許の歴史

三谷拓也 | 2017/05/26

特許の淵源


せっかくのアイディアを真似されたくない、という願望が特許制度の根底にあります。
このような願望は根源的なものらしく、紀元前においても、ある菓子職人が自分の発明したお菓子の独占製造権を王に認めてもらった記録があるそうです。制度的なものではありませんが、広い意味では特許(特別な許可)だといえます。記録に残っていないものも含めれば「特許的発想」は古くから世界各地にあったのかもしれません。



世界最古の特許法


15世紀にヴェネチアで特許法が制定されます。世界最古の特許法といわれます。日本は応仁の乱の時代。ヴェネチア特許法には、新規な発明が特許対象であること、特許侵害者は処罰されること、公的機関に特許登録されること、期間限定の保護であること、など近代特許制度の基本精神が早くも現れています。ヴェネチア特許法は、発明の利益を国家保証することで、技術者がヴェネチアにとどまりたくなる、あるいは、ヴェネチアに来たくなることを狙ったとも言われています。
ただし、このころはまだ特許制度はメジャーなものではありません。ヴェネチアは、オランダが造船技術を革新したこともあって貿易利権を失い、徐々に衰えていきます。

産業革命と特許法


近代特許制度は、17世紀のイギリスで発達しました。1623年にイギリス議会は専売条例(特許法)を制定します。専売条例は、発明と新規事業については(王権に邪魔されることなく)一定期間の独占を認める、という取り決めでした。とはいえ、法律制定から100年が経っても特許は1000件にも満たなかったと言われています。
この専売条例が18世紀半ばから始まった産業革命と相乗効果を発揮するようになります。産業の礎は「投資を守る仕組み」にあります。特許制度もその一種だと言えます。特許制度がメジャーになったのは、産業革命を起爆させた実績に負うところが大きいのではないかと思います。
18世紀、アメリカでは、ワシントン自ら音頭をとって建国当初から特許制度を創設しています。制度創設に実際に関わったのがジェファーソンです。ジェファーソンの「太陽の下、あらゆる発明を特許として保護する」という言葉は、アメリカの特許制度の基本精神を表しています。

日本の特許


1721年に徳川吉宗は発明を禁止しました(新規御法度)。保守的な吉宗にとって発明で社会が変化することは悪だったのかもしれません。前例主義の徳川幕府のもとでは、技術はついに「産業」になることはなく「技芸」の域にとどまり続けました。
幕末から明治維新にかけて、福沢諭吉は「西洋事情」という書物により特許制度を日本に紹介します。福沢諭吉は特許制度を作れば発明が奨励され、日本の発展に寄与すると述べています。そして、明治18年(1885年)に専売特許条例(特許法)が制定されます。
その後、技術力向上とともに日本の特許出願はどんどん増加します。2001年には約44万件の特許出願(国内出願)がなされました。当時は世界一でした。その後はピークアウトし、2015年は約30万件/年です。出願件数が減ってきた理由として、日本の技術力が落ちたというネガティブな説もあれば、日本企業が戦略的に絞り込んだ特許出願をするようになったというポジティブな説もあります。

特許の強度


特許制度には賛否両論あります。
特許権の乱立が企業活動を萎縮させているという批判もあります。一方、特許制度がなければ、多くの技術が、秘密化され、死蔵化され、失われてしまうかもしれません。古い技術には、現代科学では再現できないものが多々あります。
ソフトウェアやバイオなど、特許制度創設時には想定されなかった技術もあります。技術という言葉の定義も明確ではありません。技術といっていいのか、芸術というべきなのか、規則なのかよくわからないアイディアもあります。
たとえ1件であっても、特許をうっかり侵害してしまうと製品出荷を差し止められてしまいます。それくらい(理論上は)強力な特許ですが、少し強力すぎるかもしれません。ちょっとした他社特許に長年苦しめられることもあります。でも、だからこそ事業を守る力になるともいえます。
特許の強度は、地域によっても異なりますし、時代によっても揺れ続けています。特許制度は完全なものではないので、いろいろな軋轢を起こすこともあります。しかし、たとえ不完全であっても、特許というツールを使いこなしながら知を活性化させ、ひいては、ビジネスというゲームを活性化させていくことが社会の発達につながっていくのだろうと思います。